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  • コラム
  • NPO法人アンリーシュ
  • 2020年6月25日

世界中で沸き起こる#Black lives matter運動からアメリカと日本の人種差別について考える

はじめに

COVID-19の第一波が2月頃から世界各地に広まり始め、4カ月が経過しました。世界の各地で感染症対策が講じられ、その影響でたくさんの人々の暮らしが圧迫される事態が生じています。

日本でもこれまでの普通だった暮らしの在り方が大きく崩れてしまい、その結果「コロナ疲れ」という言葉も誕生するくらい多くの人々を疲弊させています。悲しいことに、一番大きなしわ寄せを食らったのは社会的に弱い立場にいる人々です。非正規雇用者や外国人労働者、DV被害者などがその代表です。

世界各地で非正規雇用者や外国人労働者、DV被害者など社会的立場の弱い人にしわ寄せが起こり、その反動としていつもは隠れていた偏見や差別が表面にあふれ出しました。隠されていた問題がコロナによって表面化したと言っていいでしょう。

そして現在、最も差別が「見える化」している国、アメリカで起こった黒人差別が、ドミノ倒しのように人々の怒りを呼び覚まし、世界中でデモが行われています。人が多く集まるデモでの感染者の広がりも気になるところですが、感染者の広がりが大きかったNYではデモ真っ最中の6月8日の時点では検査数の中の1パーセントに陽性者を抑えられているそうで、予断は許さないもののギリギリ踏みとどまっていると見て良さそうです。

今回はアメリカの#Blacklivesmatterムーブメントを皮切りに、差別について考えていきましょう。

簡潔な歴史的背景

 アメリカでの黒人差別が、歴史の中での奴隷問題に始まることは多くの方がご存じのことだと思います。南北戦争後、1865年のアメリカ合衆国憲法修正第13条の成立で法的には奴隷制は終了していますが社会的な構造は簡単には変わらず、150年経過した現在でも根深く偏見と差別が残っています。

#Blacklivesmatterというのは2013年にフロリダ州でジマーマンという男性がトレイボン・マーティンという17歳の黒人の少年を射殺したにもかかわらず、無罪になったという事件(トレイボン・マーティン射殺事件)に抗議するために黒人女性3人のグループから始まった運動です。

(創始者の3人)
https://blacklivesmatter.com/herstory/

黒人に対する暴力はその後も続き、たびたびデモが行われてきました。警察からの暴力によって死亡する、という事件が多く表に出ますが、実態としてはそれ以外にも見えないところで多くの事件が起きているのでしょう。

「殺害・死亡」というインパクトが強い事件が表沙汰になるだけで、乱暴な口調で接されたり殴られたり、ということは頻繁に行われていると思われます。日常に溶け込んでいるからこそ多くの人が怒っているのです。

多様性の国は分断されているか

 アメリカには確かに、多様な人種と属性の人がいます。根深い黒人差別に向き合うために、アメリカ社会は本当に懸命な努力をしてきたと思います。些細なことですが、例えばアメリカでは見た目で能力を判断されないように履歴書に写真を貼りません。日本では校則で髪の色、ちぢれ方などに厳しい指定が存在する学校がありますが、こういった他人の見た目に関与する規則もアメリカでは許されません。自分の属性で理不尽な決断を下されることをシステムが阻止する作りに、社会全体がなっています。

しかし、実際のところはどうでしょうか。

例えば大きな組織になっている所、大学組織、企業などでは、前述したようにシステムが差別を阻止するようになっているので、人種の偏りは他に比べると少ないと言えるでしょう。しかし例えばローカルな組織、教会などの宗教的コミュニティーや地元の合唱団などの小さなコミュニティーにおいては、人種の偏りは依然大きなものだと言って良いでしょう。

私は礼拝ピアニストとして教会で働いていましたが、そこは白人しかいませんでした。そもそもその地域にはほぼ白人しか住んでいないので、そこに行く途中でアジア人の私がKFCに寄ったりすると、奇異な目で見られたものです。(ただ、不愉快なことは一度もありませんでした!一回、KFCで食事中に席を立って紙ナプキンを取りに行ったら、私がチキンを残して帰ると勘違いされておばあちゃんに残りのチキンを取られそうになったことはありましたが笑。)

逆に、アフリカン・アメリカンの人が集まる教会もありました。何故人種ごとに教会が違うか、というと、礼拝のスタイルが違うからです。

音楽一つをとっても、私が働いていた教会ではクラシックの曲や伝統的な讃美歌を演奏していましたが、アフリカ系の教会ではゴスペルを歌っているところもありました。お互いのスタイルがあまりに違いすぎる事もあり、「先週はあっちの教会に行ったから今週はこっちに行こう」というようなことはできません。韓国系の教会で礼拝自体が韓国語で行われるので、非韓国語スピーカーには理解できない、という言語的な分断もありました。教会や地域コミュニティーは日常生活を助け合うコミュニティーでもあるので、経済格差以外の理由でも自然と居住地が分かれてきます。

このように、多くの人種やカルチャーが存在しつつ、その広大な国土の中でお互いが交流しつつも分断している国がアメリカなのです。NYなどの大都会では文化の違う者同士の交流が増えるため、相互理解を求められ、人種差別について考えさせられる機会が否が応でも増えますが、そうでない地域では、普段は自分と同じ人種で似た環境にいる人とだけ関わっているため、自分と違う人種の人が存在しているということついつい忘れがちになってしまいます。

(アメリカの田舎。隣の家まで10キロ、なんてことも・・・)
https://onemoderncouple.com/amazing-countryside-road-trips-in-the-usa/

結果として、多様化に敏感で、「違う」ということに慣れているタイプの人と、価値観をアップデートする機会がないままの人が不均等に存在することになります。それでもほとんどの人は一般的な道徳をもって生きていますが、人は緊急事態に陥るとその道徳観を忘れるものです。

基本的にアメリカ人は日本人よりも簡単に身の危険を感じる傾向にあると思います。それは、文化的にアメリカ人はより感情的であるとかそういうものではなく、銃社会のもたらす副作用が大きく関わっているのではないかと私は考えています。

実際に事件率が高いのです。アメリカの警察は日本よりも大分乱暴ですが、それは彼ら自身の死亡リスクがより高いということも影響しているのでしょう。身の危険を感じる機会が増えるということは過剰な自己防衛も増えるということです。その危機管理能力に、昔から色濃く根付いた人種差別が加わり、大きな事件が起きやすくなるのではないかと私は考えています。

(アメリカの警官は皆銃を携帯している)
https://www.citylab.com/equity/2014/08/a-history-of-police-uniformsand-why-they-matter/378660/

アメリカの自浄作用と日本における差別

 アメリカの病巣といっていい差別問題と銃社会ですが、そこに対する問題意識も非常に高いことは、学ぶべき点だと思います。問題が放置されたままにならないのはアメリカのすごいところです。

日本で差別問題について語る時、どこか対岸の火事だと良く感じます。「日本は差別とかないからね」というのもよく聞く言説です。

日本には差別が横行しています。そしてそれに対して私たちは鈍感です。

私は、香港人の友だちが日本にやってきて英語で会話していた時、日本語を話さない外国人だと思われて悪口を電車の中で言われたり、レストランでいつもとは違う扱いを受けた経験があります。その時に「日本で外国人として存在するってこんなに大変なことなんだ」と強く実感しました。

(ただ、もちろん、親切な方の方が圧倒的に多かったということは絶対に併記しておきたいところです。多くの善意を少しの悪意に上回らせてはいけませんよね)

面接で女性が「結婚の予定はありますか?」と聞かれ、就労機会が限られることは差別です。インターネットで「在日」「チョン」などの言葉を書き込んで人をさげすむことは差別です。元の髪の色を、無理やり黒くそめさせられることは差別です。肌の色で就労の機会が奪われたり、不動産を借りられないことは差別です。TVなどで特定の人種に特定のキャラクター性を押し付けることは差別です。

これらのことは日本でも多く横行され、悪意に満ちたロジックで正当化されていることさえあるため、私たちは疲弊し、心を鈍化させているように思います。そして、いったん差別を断罪するようなことを話すと、ものすごいバックラッシュを受け、追い詰められてしまいます。

日本は地理的にも、アメリカほど差別問題に向き合うことがないままここまでやってきました。アメリカには根深い差別がありますが、それと同時に差別に向き合い続け、社会や教育を変え、差別を解消することを大きな目標として進歩してきた国でもあります。日本もアメリカに倣い、見習うべきところはあると思います。

日本において、まずは差別を可視化しましょう。日本における民族的多様性はアメリカのものとは違い、アジアの国々からが中心です。(もちろん他からも)それを前提とした被差別者、またそれをサポートする人たちへの受け皿が必要です。

社会のシステムを常にアップデートし、差別が横行しにくいものを作りましょう。まず、アップデートが常に必要だという意識が必要です。被差別対象は時事と共に変化していくこともあり、一生完成しないでしょうが、それでもより良いものを目指しましょう。

教育の現場でももっと配慮が必要です。政治的問題と人道的問題の区別が曖昧で、それが差別を横行させている理由の一つだと感じています。

これらを改善することは社会を改善し、結果的には良い方向に向かうということと、差別問題を放置しておくことはいずれ自分の身に返ってくるという意識が必要です。私たちはみな、差別を受ける側でありながら、差別をする側でもあるという当事者意識を持ち、敏感になる必要があるでしょう。

どんな人も差別の加害者であり、被害者であるということ

一つ、大学院に在籍していたころの印象に残っているエピソードをご紹介します。

授業でアメリカ人男性の教授が教えるクラスを取っていました。その先生はすごく柔軟な考えを持つ方で、とても尊敬していました。ゲイで、マイノリティーである痛みもよく知っている方でした。

その先生がある授業でポロっと「女の子はギャーギャーうるさいからな」というような発言をしたのです。私は「ん?」と違和感を覚えたのですが、何も言えませんでした。すると、すぐに隣の席に座っていた女の子が「女の子が?それは差別的じゃありませんか?」と先生に聞いてくれたのです。それに対して先生もすぐ、「そうだね、これは良くなかった。ごめん」と言ってくれました。

私が何故このエピソードをよく覚えているかというと、

  1. 被差別者としての痛みを知っていても、人は簡単に差別する側になれる。
  2. 差別に違和感を覚えたらすぐに声をあげる。
  3. 差別に気づいたらすぐに認め、謝る。

という3点が一瞬でおこなわれたからです。

私たちは全てに配慮することは残念ながらできませんし、どんなに気を付けても間違いを犯すこともあります。ただ、それと同時に私たちは過去の失敗から学び、自分をより良くすることも出来るのだということをこの出来事は私に印象付けてくれました。

さいごに

 これまでに差別の中で亡くなられた多くの、本当に多くの人々の命を思うと、それらのどうしても取り返しのつかない命にとてもやるせない気持ちになります。今回警察に殺されたジョージ・フロイドさんはデモのシンボルになりましたが、そんなシンボルになることなく、自分の人生を生きたかったと思います。

せめて取り返しのつく範囲の間違いは、変えていきたいものです。誰かがした間違いも、自分がした間違いも、とても苦しいけれど、赦すという選択肢をもって。

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