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  • 2020年8月3日

知らないことを知ることが自分を夢中にする パラリンアート代表 中井 亮さん

アートの力で障がい者の自立支援を行う社団法人障がい者自立推進機構の代表理事兼キクエストの編集長でもある中井 亮さんに、これまでの歩みと入社のきっかけ、創業期から現在に至るまでの思いを語って頂きました。

とても穏やかで、親しみやすい印象の中井さん。お話を伺っているうちに、私もすっかり中井さんのファンになってしまいました。

パラリンアートとの出会い

———パラリンアートで働く前はどんなことをされていましたか?

僕は関西(奈良、大阪、和歌山)で育ちました。元々知的好奇心がとても旺盛で、気になったことは「なんでなんで?」がずっと続く子で、同時にいくつものことに興味を持って、また他のことにも興味を持って、が繰り返し発生する子供でした。

比較的教育熱心な両親の元、「勉強しなさい」と言われて育ち、「大学には行っときな」と言われ当たり前のように大学受験をしました。地元を離れて一人で生活したかったので、「東京へ行こう。どうせ東京に行くなら有名な大学へ行こう!」と思い、上智大学に入学しました。一人で暮らすことも東京に出ることも、「面白そう!!」だけです(笑)

今思うと相当浅はかな考えなのですが、当時は有名大学に入ったことがゴールで、以降は楽に生活していけると本当に思っていました(笑)

1、2年は友人たちと純粋に学生生活をエンジョイしていたのですが、3年になった途端に周りの友達は皆目の色が変わり、就活をし始めました。僕はそんな彼らを見てこう思いました。

「なんで!嫌だ!もっと好きにしていたい!」と(笑) 本当に浅い浅い水たまりみたいな考えですが、何で人に評価されて選ばれなきゃいけないんだろうと思っていました。そこで大学を1年休学し、学生期間を伸ばし、その間働いてみる作戦に出ました。

大学の友人の親が経営している会社で働かせてもらいつつ、終わった後はバーでバーテンしながら働いて、朝はそのまま友達に連絡して飲みに行く、をして休学期間を過ごし、いざ復学したもののやっぱり就職したくない・・・。

そんな中バイト先で尊敬している先輩に「やりたいことがわからない」と相談したところ、「日々何気なくやっていることの中に、お前が好きでやっていることが絶対あるから、それを見つけてみたら?」というアドバイスをもらい、考えてみたところ”人前で喋ること”と”お笑い”というキーワードに辿り着きました。

2つとも好きだけど、得意かと言ったらそうじゃない。でもこの2つを習得できれば人間として成長出来るのでは?と考え、お笑い芸人を志すようになりました。最終的な決意は思った以上に簡単で、「面白そうだから、あり!!」です(笑)

——— 一般的に、得意ではないことを進んでやるには気が引けると思うのですが、あえて自らで厳しい環境に身を置いたのには何か理由がありますか?

一番は知らないこと、知的好奇心をくすぐることであれば、得意得意でないことは二の次でした。得意と人に言えるってことは、ある程度知識も経験もあること多いですよね。

それと、人が自分に自信を持てるタイミングと、自分に自信が持てなくなるタイミングは同時に現れることもあれば、自信があったのに急に気持ちが変わって自信がなくなることもあります。これ、どういう時に一番あるかというと、出来ないことが自分の中で見つかった時なんです。きっと「自分はダメな人間だ」とすぐに思ってしまうと思うんですよね。

でも僕は両親に「苦手なこと、出来ないことをやりなさい。それがあなたを成長させる。」と教わりながら育ちました。

苦手な事を克服すると、人間的によりステップアップ出来るという考えを昔から持っていたのだと思います。

———そして、大学を卒業してすぐにお笑い芸人を志すことに?

はい。大学卒業後、吉本興業の養成所よしもとNSCに行き、芸人としての活動が始まりました。

ただ、養成所を卒業して吉本に入り、そこから3年くらい舞台に立ち日々漫才やコントを続けていたある日、舞台後に突然「あれ?舞台やコントやるの、そんなに好きじゃないかも…」と思ったんです。この3年無我夢中でやってきて本当に突然思ったんですよ。

そこで改めて”自分は何がしたいのか?”と真剣に考えました。いきなり、ふとお笑いを心から楽しんでないかもと思った時は衝撃だったので(笑)

考え抜いた結果、「人前に出て何かをするよりは、企画や概念といった箱を作って、その中で人が楽しんだりするものを作りたい。それを作る自分が楽しいんだ。」という結論に達し、放送作家の真似事をするようになりました。

しかし、これだけで食べて行くことは難しかったので飲食店でのアルバイトも続けていました。

このアルバイト先で、お客様として何度か来て頂いていたパラリンアートのオーナー(現取締役会長)の松永昭弘氏に出会い、お話をさせてもらう中で僕を気に入ってくれて、会社に誘ってもらったのです。

その当時は、テレビ番組の企画書を放送局に持っていく仕事も同時にしていて、どっちを選ぶか迷いました。放送作家の仕事もすごく楽しかったんですよ。ノーアポでテレビ局に忍び込んで、会ったことないプロデューサーさんのデスクに行って、直談判をしていたので(笑)

でも、松永が語る「障がい者が活躍できる場を作りたい」という思いに僕はとても共感し、惹かれていきました。そして、何度も話を聞く度に「僕も、障がい者が活躍して所得を得て、誰かを助ける社会を作るような企画をしてみたい」と強く思うようになりました。

こうして、晴れて30歳で初めて会社で働く社会人となったのです。

夢中で仕事をしていたら、社長になった。

———これまでの経歴を聞くと、ジョブチェンジが多かったと思います。パラリンアートは今年で入社7年目になりますが、30代を迎え変化はあったのでしょうか?

そうですね。僕の中で20代は”自分のことしか考えていない人”でしたが、30代になってから少し視野が広がり“人に生かされている。”と思えるようになりました。

———そう思えるようになったきっかけやエピソードはありますか?

一番単純なきっかけは、会社から固定給をもらうようになったことと、会社の損益計算書/貸借対照表を見るようになったことです。

パラリンアートは僕が始めて会社で働くことになった企業ですが、入社した当時は僕含め3名しかいなくて(内1名が役員であるオーナー)、お金の流れが見えていました。お金の流れを見ていると、自分の給与だけでも稼ぎ出すのってめちゃくちゃ大変なんだと強く感じたのです。今まで働いたらお金を貰えるのが当たり前だと思っていましたが、人が人を雇って、生活を保障するって本当にすごいことだと気が付いたんです。

ああ、自分が何も考えず好きにやりたい」と言うのは、権利を主張しているだけで義務や責任を果たしていないんだな、と強く感じました。とは言っても、そこからもめちゃくちゃ自己主張強いですけどね(笑)

———創業期のお話を聞かせてください。

最初は、絵画レンタルのサービスを行っていました。

当時、オーナーの松永は訪問マッサージ事業をしていて、障がい者施設や生活介護の方の施設に訪問する機会もあり、社会参加と経済的自立のきっかけに乏しい障がい者の方々をたくさん見ていました。そういった施設では、絵を描いている障がい者の方たちの姿を見ていました。

その表現の中には素晴らしい作品や、生きることをそのまま表現しているモノがたくさんありました。でも、それが社会で見られているわけでも、評価を受けるわけでも、お金に変わるわけでもない。

そこから彼は、障がい者が描く絵に関して何かマネタイズする仕組みが出来れば彼らの生活も良くなるし、社会が変わるんじゃないかと考えるようになったんです。方法として、会社の会議室に飾られる絵を、障がい者アートに変えていくというサービスを作り、僕はその営業をしていました。

営業をしていると、お客様から「絵画のレンタルじゃなく、カレンダーのデータには出来ないの?」などと聞かれることもありました。このように、お客様から頂いたアイディアを商品化していき、結果として売上が伸びるようになっていったのです。

———社長になるまでの経緯を教えてください。

売上が拡大すると共に新しい人材を雇用する機会が増え、僕にも後輩が出来るようになりました。小さな組織だったのであれよあれよという間に事業を仕切る責任者になりました。

事業計画を立てたり、経営目線で数字を読み込んだり出来るようになり、営業成績も伸びてきました。そうしてるうちに、会社全体の運営をしていました。

これはオーナーの松永の懐が深く、挑戦する機会をもらっていたと思っているので、運が良かったと思います。社会人中井を形成してくれた、成長させてくれたオーナーには本当に感謝しかありません。

社長になりたくて頑張ったわけではなく、好奇心旺盛な僕は、知らないことを知る機会が多いこの仕事が楽しくて仕方なくて、夢中でやり続けたら社長になったという感じです。

———今までの仕事の中で一番印象深かったことは何ですか?

障がい者の子が笑顔になった瞬間を自分たちで作ることが出来たという実感が湧いた時、身震いするくらい感動しました。

会社に入ってから、今も続いている一番大きなイベントの一つで損保ジャパンさんにスポンサリングしてもらっている、スポーツをテーマに全国からアートを募集する「SOMPOパラリンアートカップ」というのがあるのですが、その第一回大会2016年の表彰式で受賞した子たちの笑顔が忘れられないです。授賞式が終わってやり切った後、泣いていました。4名にも満たない少人数でやりきれたのも大きかったと思います。

———障がい者アートを扱うお仕事ですが、中井さんは以前から障がいのある方と関わりがあったのでしょうか?

今までの人生で全くといって良いほど、障がいがある方と接したり関わったりする機会が無かったのですが、この仕事をやろうと思った時に最初から皆に関わっていくのがちょっと楽しみだったんですよね。

これは、性格だと思うんですが、今まで接する機会がなかった方とコミュニケーションを取ることへのワクワクのほうが強かったですし、今も仕事仲間としてフラットに接することが出来ているかなと思っています。

障がいがあってもなくても、人間同士の付き合いだと思っています。

———人間同士の付き合い、まるで心のバリアフリーですね!

これからのパラリンアート

———今後パラリンアートでやりたいことは何ですか?

たくさんあるんですが、1つ目は本当の意味で自立している障がい者をプロデュースしていきたいですね。

現状、作品が企業に採用された登録アーティストに年間1,200万円くらいのアーティスト報酬を出せているのですが、パラリンアートの仕事だけで、もしくはパラリンアートでの実績がきっかけで完全に自立出来るという形をもっともっと増やしていきたいです。

わかりやすい実績を作ることを行ってきましたが、これからは障がい者が活躍・自立出来る、シーンをどれだけ作っていけるか、見せていけるかだと思います。

2つ目は、障がいを持つ子どもの親御さんや家族の為になるものを作りたいと思っています。

子どもに何かしらの障がいがあると、意思疎通がうまくいかないことがあったり、フルタイムで働くのが難しかったりと、周りの理解とサポート体制が重要だと感じています。もちろん子育てにはお金も体力もかかります。そのあたりをケアできるようなサービスやコミュニティーを作っていきたいなと思っています。

3つ目は、部下が中心となって運営していく仕組みにを作っていきたいと思っています。

僕とは違う知見や考えやアイディアを持っているチームのみんなには、やりたいことにぜひ挑戦してもらいたい。そして周囲も納得する結果を出す。そのようなサポートや組織作りが僕の課題だなって思います。

———キクエストの歩みとこれからを教えてください。

パラリンアートのこれまでの取り組みの結果で、パラリンアートに関心を持ってもらい、パートナーとなってもらう企業様はありがたいことにたくさんいらっしゃいます(2020年7月現在約170社)。ただ、皆様もほとんどが株式会社です。株式会社の本質は営利を追求することなので、見合ったものをご提供し、共に作り出さなければいけません。

そのために私達自身の発信力を上げ、選んでもらえる存在にさらに成長する為にキクエストを始めました。

そんなキクエストも月間20万PVを記録し、どんどん成長しているのが嬉しいですね。

———中井さんの知的好奇心が「知らないことを知るメディア キクエスト」に繋がってるんですね。

たしかにそうですね(笑)今までは、会社の取り組みや仕組みの説明、物事の解説等が多かったんですが、今後は個人にスポットを当てた記事を増やしていきたいなと思っています。

人には人の数だけドラマがある、と思ってます。


中井 亮さん

関西(奈良、大阪、和歌山)出身
社団法人障がい者自立推進機構 代表理事
趣味:温泉、野球観戦(読売ジャイアンツ)、漫画、睡眠、食事、酒
好きな漫画:バガボンド、レベルE、うしおととら、ろくでなしBLUES
好きなお笑い芸人:ダウンタウンさん、とんねるずさん、アンタッチャブルさん、かが屋さん、コウメ太夫さん
好きな映画:インターステラー、ゼロ・グラビティ、ピンポン、バック・トゥ・ザ・フューチャー、スター・ウォーズ

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