パラリンアートホームページはこちらをクリックください。

既存のパラリンアートHPはこちら

society

  • 社会
  • 日本の社会
  • 2020年7月29日

人から見た“正しさ”を追い求めてしまっていませんか?自分らしく生きるとは?

2020年に入り、新型コロナウイルスの流行によるや自然災害、安楽死・尊厳死をめぐる議論、そして著名人の死など、「生き方」や「命」を扱う報道が増えました。しかし、変わり映えのしない毎日を過ごしていると、「命」や「生きていくこと」について真剣に考える機会をついつい後回しにしてしまいます。どんな瞬間も“命はひとつだけ”、そして“今という時は二度と戻らない”ことを忘れず大切に生きていきたいものです。今回はかけがえの無い命について、そして生きるということについて一緒に考えてみませんか?

自ら自分の「命の最期」を考える時

私は「死」、特に「自分の最期」についてとても興味を持っています。私は一体どうやって死ぬんだろう、何歳で死ぬんだろう、死ぬ時に一体何を考えながら死ぬんだろうと考えてしまいます。「死」をテーマとした本や映画なども多く見てきましたが、その中でも一番興味深く、考えさせられたのは山田宗樹さんの百年法 上 (角川文庫)という本でした。

あらすじ

不老不死が実現した日本。しかし、法律により百年後に死ななければならない――西暦2048年。百年の生と引き替えに、不老処置を受けた人々の100年目の死の強制が目前に迫っていた。その時人々の選択は――!?(引用:https://www.kadokawa.co.jp/product/321410000067/

2048年の日本では不老不死の処置を受けることで若い頃の容姿と体力を永遠に保つことが可能になりました。しかし、人が死なないということは人類が永遠に増え続けるという側面も持ち合わせています。人口が増え続けることを防ぐため、不老処置を受けてから100年が経過すると「死ぬ」法律、百年法が制定されたのです。生まれ持った運命に基づいて寿命で死ぬのか、それとも不労処置を受け100年後(もしくはその前)に自らの意思で最期を迎えるのか選ばなければなりません。自らで命の期限を決めるというのは一体どんな気持ちなのでしょう。

私が自身の命の終わり方について真剣に考えたのは新型コロナウイルスが流行した4月のことでした。政府の専門家会議が4月1日に発表した「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」に

(2)自分が患者になったときの、受診行動について
〇 感染予防、感染拡大防止の呼びかけは広まっているが、患者となったときの受診行動の備えは不十分である。例えば、受診基準に達するような体調の変化が続いた場合に、自分の居住地では、どこに連絡してどのような交通手段で病院に行けばいいのか、自分が患者になった時、どのように行動すべきか、事前に調べて理解しておき、家族や近しい人々と共有することも重要である。

という声明が盛り込まれたのです。

この声明が発表された4月と言えば新型コロナウイルスの重症者が増え医療の現場が逼迫し、医療崩壊の正に瀬戸際というタイミングでした。世界でも新型コロナウイルスの感染拡大は広がり、人工呼吸器の台数が足りず、“命の選択が行われている”というショッキングなニュースが報道されていた時期に重なります。(参考:迫られる“命の選択” 「誰を死なせ誰を生かすか」 苦悩するイタリア・スペイン

もし私がコロナウイルスに罹ってしまい人工呼吸器が必要となった時、私は他に苦しんでいる人もいる中で人工呼吸器を要するのだろうか、他の苦しんでいる人よりも私の命は人工呼吸器をつけて延命するまでの価値があるのだろうかと考え込んでしまったのです。

今は体に不調が無くともいつかその時のために今、これまでの人生や命に見切りをつけるのだろうか、と考えるシーンはまるで百年法の不老処置を受けるかどうか悩むシーンに似ているなと考えていました。自分で自分の命の区切りを考えるということはいつか来るその日を意識し、毎日をしっかり生きることに繋がるのでしょう。死ぬのはまだまだ先だから今はまだいいや、と目の前のことを蔑ろにするようなことは減ったように思います。

他人の価値観で最期を迎える命

命の選択というワードに関する話題でもう一つ心に止まったのは、「れいわの立候補予定者が「命の選別」発言 山本代表釈明」というニュースでした。れいわ新選組の大西恒樹氏が動画投稿サイト上で「どこまで高齢者を長生きさせるのか。命、選別しないと駄目だと思う」と発言し、批判が相次いだのです。

こちらも生きている命に対して運命の結末を迎えるより前に見切りをつける話になりますが、前述の命の見切りと異なる点は「自分意外の他人が自らの命に見切りをつける」という点でしょう。他人が命の価値を測るということはこれまでの人生が他人の基準で判断されるということになります。

私は自分以外の誰かの価値観で命の重みや人生を判断されることは絶対にあってはならないと思っています。他人からは悲しく惨い人生を送っていたとしても、人生を生きる本人からは他人の想像とは異なる景色が見えているかも知れません。また、他人の価値観で評価されるというのは常に人の目を意識しながら生きることと同義で「自分らしさ」を失い仮の姿で生き続けることを意味します。自分を押し殺し生きていると悲しいことに「どうして私は生きているんだろう」という問いを投げかけてしまうことに繋がってしまいます。

知らぬうちに追い求めてしまっている「正しさ」とは

連日のように報道される命に関わるニュースを聞きながら、私にとって大切な人が“どうして自分なんか、生まれてしまったのだろう”と思ってしまった時、“どうして今もまだ私は生き続けてしまっているのだろうか”」と自らに問いかけている時、何て声をかけたらいいのだろう、何と声をかけてもらえたら心の闇が晴れるのだろうか、そんなことを考えるようになりました。

考えがまとまらず、人に相談すると「それはきっと、答えを求め過ぎているんだと思う。そういう問いには答えは無いものだよ」と言われ、ハッと気がつきました。そうか、私は心に湧く疑問の全てには「適切」な答えがあるものだと無意識のうちに思い込んでいるのだと。

どうして私が全てのことに「答えはある」と思うようになったのかと考えると、やはりインターネット・SNSの普及が大きな要因の一つと言えるでしょう。ここ数年、SNSの普及と同時にSNSとの付き合い方も多く議論されて来ました。

SNSは自分の考えを簡単に発信出来るツールですが、いいねの数やフォロワー数など、目に見える形で考えを定量化されるツールでもあります。フォロワー数が多いほど、いいねの数が多いほど、「正しい意見である」という風に錯覚していたのでしょう。定量化されることに慣れてしまった私たちはいつの間にか“正しくあること”を「正」としているのではないでしょうか。万人に受け入れられる「正しくあること」なんてこの世の中には存在しないことも分かっているのに目先の「正しくあること」を追い求めてしまっています。

“生きていくこと”とはまだ見ぬ答えを探すこと

私たちは「自分とは何者なのだろう」という問いを持ちながら生活しているかもしれません。自分は一体何が好きで、何が得意で、自分がもし人の役に立てるとしたら何が出来るんだろう、そんなことを考えながら生きているのかもしれません。これらの問いに対する答えは時間の経過と共に変化していくものであり、常に答えを持ち続けることが正しいとは言い切れないと思っています。

自分って何だろうという問いの答えを探していくのが「生きていくこと」なのではないかと今の私は考えています。私たちは正解の無い問いに常に向き合っているからこそ、迷い考えるのでしょう。誰かが決めたもっともらしい「答え」に振り回されず、自分らしい「答え」を探していきたいと思います。もがき苦しみながら「答え」を探している人に対してもっともらしいことを差し出すのではなく「私も今しっくりくる答えを探している途中だよ」と優しく寛容な自分でいたいと思いながら今日もまた生きていきます。

この記事をいいねと思ったら!

    16+
    いいね!

Related Post

What's New

公式SNS